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新生児脳梗塞からの生還記録

何事も無く普通に産まれてきた我が子をいきなり襲った脳梗塞。不安に駆られた私達夫婦は戸惑いながらもネットで色々と調べる日々が続いた。しかし同じような症例は見つからない。探し当てた記事に気分が沈み不安が高まることもあったが時に励まされもした。そんな不安な一年間を振り返ってみて、あってほしくは無いが今後同じような病気に襲われた方に、この一部始終が少しでも励ましになることを願って、基本的には事実のみを、そしてその時々の親としての思いをここに記すことにしたものである。
はじめに

このページは手元に残る当時の記録と記憶を元に少しずつ書き進んでいるものです。お問い合わせやご意見ご感想に関しては最下部のメールアドレスまでお願いいたします。出来るだけの対応をさせていただきます。尚、著者は普通の父親であり決して医療従事者ではありません。医療に関する用語などはなるべく正確な記述を心がけていますが、すべての保障は出来かねます。

この記事はあくまでも我が子に関する記録です。同じような症例を探してここに辿り着かれた場合は特にこの記事を鵜呑みにせずに、主治医と納得行くまで話し合いをされる事をお勧めいたします。今この文章を書いていて一番の薬は主治医との信頼関係であると改めて思えます。親御さんの思いをしっかりと主治医に伝えてください。それがきっとご本人のためになると私たちは考えます。最後に記事中には特例的な薬の使い方を含みますが、あくまでも一例であることをご了承ください。

■最終更新日は 2020-10-17 です。
■物語の始まりはこちらから。
■成長記録はこちらから。

15歳になったぞ2020-10-17

なんと12年ぶりの更新です。何かとシガラミに追われて更新する余裕がありませんでしたが、息子はもちろん家族も新型コロナウィルスなぞには感染せずに15歳の誕生日を迎える事ができて感無量でございます。中秋の名月を眺めるごとに今でもあの日のことをありありと思い出しますが、日々のルーティンが固まってそれをこなすのが当たり前の毎日になっています。

この直前の更新は2008年ですが、それ以降も入退院を繰り返しているものの、自宅での生活は入浴介助や訪問看護スタッフ諸氏のおかげでQOLも満足できるレベルをキープできているし、特別支援学校への通学もゆっくりしたペースながら息子本人も楽しくてしょうがないようで、それを見ている私達も嬉しい限りです。

今後も更新回数は少ないとは思いますが、地道な情報発信をしていきたいと思いますので時々覗きに来てくださいませ。そんなわけで誕生日おめでとう!

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ようこそ!

平成17年の中秋の名月が東の空に顔を出す頃に、彼もこの世に顔を出す準備を始めたようであった。この世は楽しいことがたくさんあるから早く出て来いと日々聞こえる父親の声に反応したのかどうかは本人のみぞ知る世界であるが、とにかく彼は私の目の前で元気な第一声を放った。

彼を家につれて帰ったら我が家の同居ねこたちはどんな反応をするんだろうか。私の中年暴走族仕様のくるまにおとなしく乗ってくれるだろうか。最初はやっぱり動物園に連れて行きたいな、とかいろんなことが頭の中を飛び交っていた。年を重ねるごとに緩くなってきた涙腺が今日は一段と緩んでいるのか、涙がにじんで視界が揺れていた。

おめでとう、ようこそこの世へ。

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延命措置

翌日の14:45に「呼吸音が気になるので専門医に診てもらいましょう」とのことで市内の大きな病院へ救急搬送される。17:00に脳出血との第一報を受ける。すぐにカンファレンスルームに走った私はCT画像を一目見て絶望。既に素人目にも他の病院へ搬送すること自体が危ないほど血腫が脳を圧迫していた。診断は「硬膜下およびくも膜下に血腫。頭蓋骨膜内にも出血を認め、なおかつDICと診断せざるを得ません」との事であった。

脳神経外科をはじめ、某大学病院から応援に来ていただいていた脳神経外科・麻酔科・小児科と病院スタッフが勢ぞろいした部屋で、残念ながらこの病院では過去十年以上新生児に対して今回のような術例は無いとの説明を受ける。だからと言ってこのままでは間違いなくお亡くなりになりますとも告げられる。

私は考えたが考えても答えが出るわけでもないし子どもが良くなる訳でもない。だけど決断しないといけない。この時に私の脳裏に浮かんだのは何事も無く元気に笑っている我が子の姿であった。「何が起きようとすべてを受け入れます。スタッフの皆様のベストを尽くしてください。」とお願いをした。

あくまでも延命措置ですとの前置きで、穿頭血種除去術の準備が始まった。19時頃手術室に運ばれる彼を見送る。これ以上無いくらいの不安な時間が経過して23時過ぎに終了。血腫除去の目的は達成され、彼は生きていた。

出血の原因は今もって分からないままである。満一歳の日にMRAも撮ったが原因や出血場所の特定も出来ていない。しかし仮に原因が判ったからといって何かが変わるわけではないので、今では特に気にしていないのが実情である。

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DICとの戦い

DICとは播種性血管内凝固症候群のその名が表す通り、全身の血液が血管内で凝固する病気である。簡単に言うと血液中の血小板と凝固因子が消費され減少した結果、出血傾向が強まるということで、つまり脳出血を起こしているときには決して好ましい事ではなく、非常に困った事態である。ということをはっきりと認識したのは数日後であった。

治療は小児科医の慎重な投薬で進められた。毎日詳細な数字を挙げて説明を受けるが正直なところほとんど理解できなかった。理解できたのは大変なことになりながらも生きている目の前の我が子のために、何かをしなければならないということだけであった。しかし何をすればいいのかまったく解らなかった。

何度も説明を受けるうちにいくつかのキーワードが頭に残るようになったので、家に戻ってからその意味を調べる毎日が続いた。意味が解ってくると疑問も湧いてくるので医師やスタッフの方々に訊いた。少しずつ現実が姿を表してきた。それは想像以上に強烈な姿であった。

毎日、検査結果の数値に一喜一憂する日々が続いた。

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脳浮腫のあとは・・・

血腫で脳組織が圧迫されていたのがどれくらいの時間だったのか、どれくらいの範囲に及んでいたのかは、今となっては知る由もないが、手術直後のCT画像にははっきりと脳が写っていた。私は再出血が恐ろしかったが幸いにもそれはなかった。脳の腫れが収まればすべては元に戻ると私は信じていた。

しかし何か決定打がほしかった私は手術翌日の夕方、医師にラジカット(脳保護剤)の投与について相談した。この薬の重要な基本的注意には「播種性血管内凝固症候群(DIC)があらわれ、致命的な経過をたどることがある。」と書かれている。しかし慎重な話し合いをした結果、薬の発注がなされ、翌日から厳重な監視下でラジカットが投与される。脳の腫れもまだ収まらないようである。神頼み、いや医師頼みである。

眠れぬ数日が過ぎ、僅かずつではあるが腫れが収まってきた様子が観察できるようになってきた。CT画像でも確認でき、峠は越えたとひと安心した。反応がないといわれていた左目の対光反応が現れてきたりと、好転の兆を感じていた。しかしこれは終わりではなく始まりであった。

確かにCT画像に写った脳の色が少し濃かったのは覚えているが、これほど見事に全滅していたとは思わなかった。週間ごとのCTを見るのがだんだん怖くなってきた。最初は海綿のように見えていたかと思うと、次に見たときにはポツポツと空洞になっていた。そして一ヵ月後にはその空洞がまとまって大きな空間と化していったのである。

通常は、四つの左右上下対象の三日月様になっているはずの脳室が、まるで大きな四葉のクローバーのように見えるようになるまで長い時間は必要でなかった。毎日子どもの頭に手をやり、細胞たちよ、これ以上死ぬんじゃないぞと心で叫んだ。

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痙攣ってなんだ?

時は流れ秋が終わり冬がやってきた頃、脳浮腫とDICという魔の手からかろうじて逃げ延びた息子に現れたのは「自転車こぎ」であった。典型的な痙攣の症状だと聞かされたが、私の目には手を動かしている普通の赤ちゃんとしか見えなかった。

冗談ではなくこの頃の私の脳は「この子は絶対に何事もなかったように家に帰ってくる」という思考しか出来なくなっていたので、主治医の言う「痙攣」が、はるか遠い場所の出来事のように感じていたのである。誤解を恐れずに書くと「てんかん」「けいれん」「のうせいまひ」などの言葉に妙におびえていた私達夫婦がそこにいた。

今、改めて当時の写真を眺めてみると、手も開いているし眼力もしっかりある。どこからどうみても五体満足の赤ちゃんである事が確認できる。しかし我々の眼に見えていないところで不思議なことがじわじわと進行していたのである。

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初乳を飲ませたい!

毎日NICUに通っていると自然と看護師さんと心の通う会話が増えてくるもので、ある時私が「この子に初乳を飲ませたいんだよね」と言ったところ、「じゃぁマッサージしてみましょう」との答えが返ってきたかと思う間もなく母親とともにブラインドの向こうに消えた。

なにごともなく事が運んでいれば今頃は数時間ごとの授乳となっていたはずであるが、こんな事態に母体もびっくりしたようで初乳を大事に抱え込んだままとなっていたのであるが、いい機会なのでうまい具合に行けば息子に飲ませることが出来るかもしれない。

やがてブラインドの向こうから出てきた二人は息子の元へ歩み寄り、手にした初乳を息子に与えた。その様子を見ていた私はずっと堪えていた涙がまた溢れそうになってきて困った。

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大脳実質を認めず?

手術から約三週間後のMRAの結果がまたショックな内容だった。直接の引用は避けるが簡単にかいつまんで意訳するとつまり「大脳がほとんどありません、脳幹や小脳はあるけど縮んでます。」ということ。

専門医の所見は極めてクールなのである。面と向かって話をするわけじゃないのでこのような書き方が出来るのだろうが、まったくもって人間味を感じないところが恐ろしい。立場が変わって自分や身内が病魔に冒されたら少しは変わるのかもしれないが、出来ることなら想像力を持って今のうちに変わって欲しいものである。

それにしてもこの子は実際に笑うし嫌なことをされると避けようともする。これこそ脳が残っている証拠なのではないか。と信じて毎日を過ごして一年が経ち、いま改めて脳がちゃんと残っていることを実感しているのである。

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生命力の強さ

産まれてきてすぐに手術を受け、なんだかよく解らないままにNICUに入院し、毎日様子を伺いに病院に通う日が始まったこの頃までの間に、私達は数え切れないほど絶望し、夢を見、祈り、夫婦で励ましあい、事情を知る人から励まされた。しかし一番励ましてくれたのは他ならぬ我が子であった。

主治医から説明を受けるときに「ピン」から「キリ」までの今後の予想があった。「キリ」はいつも当然ながら「死」であった。しかし、この子が死ぬことは想像力豊かな私にあっても、なぜかそれだけは想像できなかった。いつも瞼の裏に5歳くらいの元気に遊んでいる我が子の姿があった。

大方の予想を何度も良い方向に裏切り、何度も迎えた大きな峠を乗り切った我が子に底知れぬエネルギーを感じることが多くなった。我々の知らない何者かに守られているような感じといえばいいのか。とにかく生命力が強い。この子は生きたいのだなと話し合った。

こういう風に感じたのは術後ずっと下がり続けた体重が横ばいに転じたことが大きかった。そして約三週間後に突然呼吸器が取れていたことも。後日談であるがその呼吸器のチューブを抜いたのが本人であったこと。これらのことがきっと本人の意思の現れであると感じたのだと思う。

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生きてNICUを出る事

毎日のNICU参りが日課になり、晩ご飯を食べながらその日の我が子の様子を思い出すように話をし、明日の好転を願いながら眠りにつくと言う風に、私たち夫婦の生活にも少しずつリズムらしきものがでてきた。

その頃にいつも気になっていたのが同じNICUにいる他の赤ちゃんのことであった。面会時間は決まっているので親同士が顔を合わす事は多々あったが、当然ながらとても世間話をするような雰囲気ではなかった。新しく増えていることもあったし、ある日突然退院したのか人数が減っていたこともあった。処置の方法も色々で、とてもまっすぐに見ることが出来ない事もあった。

そんななかで我が子は段々と安定している時間が長くなってきた。頭の手術痕がしっかりと塞がらないままであったが毎日沐浴をし、母乳を飲み、抱っこで眠る日々が訪れた。主治医が心配しているけいれんも我々の見ている前では不思議とおきない。あれこれと毎日ネットを徘徊して知った恐ろしい病気のことを少しずつ忘れて行けるような気がしていた。

手術から三週間目になって哺乳方法がチューブだけから哺乳瓶併用になった。一回当たり10〜20ccほどを一日8回と記録されている。最初は1ccを二回だけだったのだから、この変化は嬉しかった。

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入院生活のまとめ

入院中は「面会日記」なるものをスタッフとやり取りしていた。これを読むとおおよその経過が分かるという非常に優れものであった。その後他の病院(NICU)の話を色々と聞く機会が増えたが、市内での新生児診療体制はここが良かったのだと気づいた。

で、その日記から主な事項を時系列で抜き出してみた。少しは様子が伝わってくることと思う。

※( )内は日齢を示す

2005-10-17 (00) 出生
2005-10-18 (01) 穿頭血種除去術を受ける
2005-10-19 (02) 夜からラジカット投与開始
2005-10-20 (03) 母と初対面・初乳・光線治療・ドレンを抜く・ラジカット開始
2005-10-21 (04) 動脈のラインを抜く
2005-10-22 (05) 母退院
2005-10-23 (06) ラジカットの副作用で腎機能が落ちてきたので回数を減らす
2005-10-24 (07) 体重が最低値になる(出生時 3,105g → 2,792g)
2005-10-27 (10) カンガルー抱っこ開始
2005-11-01 (15) 経口哺乳開始・壊れた細胞からの再出血を認めたが収束している
2005-11-02 (16) ラジカットワンクール終了
2005-11-03 (17) 抜糸
2005-11-04 (18) 呼吸器が取れる
2005-11-06 (20) 初直母
2005-11-08 (22) 経口のチューブを抜く
2005-11-11 (25) 最後の点滴が取れる
2005-11-12 (26) 沐浴開始
2005-11-14 (28) 母と初の沐浴
2005-11-17 (31) 洋服を着てベッドに移動・一度に100cc位を一日に6〜7回飲む
2005-11-20 (34) 昼夜逆転・始終抱いてもらっている日々
2005-11-23 (37) 一度に100〜150cc位を一日に5回で落ち着く
2005-11-30 (44) 体重が 4,000g を超える・少しずつ身体に肉が付いてきた
2005-12-01 (45) 退院の日を決める
2005-12-05 (49) 体重 4,220g ・哺乳 total 712cc/day
2005-12-10 (54) 体重 4,400g ・哺乳 total 725cc/day
2005-12-14 (58) 体重 4,526g ・哺乳 total 893cc/day
2005-12-16 (60) 退院

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どうして眠らないの?

あの満月の日から二ヶ月が経ち、ようやく我が家に帰ってきた我が子。ねこたちとの挨拶も終わり、まぁまずはゆっくりと休んで欲しいと思ったのだが、これがまったく眠らない。お腹一杯になっているはずなのに眠らない。あやしながら抱っこしてうつらうつらしたかと思うとすぐに眼を覚ます。そうやって数時間が過ぎてようやく布団に寝かせたと思ったら、今度はお腹がすいてぐずりだす。

このワンセットが大体3時間。これを8セット繰り返すと一日が経過する。この繰り返しの繰り返しに疲れてある夜、ぐずる我が子を車に乗せて深夜のドライブに出た事があった。付近の道路を走り出すとすぐにおとなしくなった。しめしめと思っていると信号停車でまたぐずる。こうなったら信号の無い高速道を走るしかないと考えて、近くのインターへ向かう。昔懐かしい夜のハイウェイである。この世は結局3時間走った。そして家に帰ると我が子は起きていた。

私達は疲れ果て、ふとんに我が子を抱くようにして眠りに落ちていったのだが、枕元に来たねこが遠慮がちに小さな声でにゃぁと鳴く。我が子が反応。ねこを反対側のふとんに招きいれてまた眠りに落ちる。と、私がくしゃみをする。我が子が反応。疲れた。本当に疲れた・・・


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その目に映るものは

我が家に帰ってきてひとつきが経った。相変わらず眠らないがなんとなくそれなりのリズムが出来てきた。そんな頃に気になる事が出てきた。それは眼で物を追わないこと。病院でも「追視をしますか?」と訊かれて戸惑う事が多くなった。母子手帳や育児日記の類を拾い読みしていて、視力に関しての記述があると思わず子どもの顔を覗き込んでしまう。

一時は瞳孔すら反応しなかったのであるので、おぼろげながら覚悟はしていたつもりであった。抱っこして顔を合わせている時に一瞬だけ目線が合うこともあったが、あくまでも一瞬である。見えているのかどうかは限りなく怪しいと思った。検査の方法は色々とあるようだが、私達があれこれと調べて知ったほとんどの方法はこの時期ではまだ無理であろうと思われるし、そもそも大脳のほとんどを失った我が子の頭を調べてもなにがどうなるのかすら理解できなかった。

そんなことに悩みつつも毎日は繰り返されていったそんなある日のこと、車で通院の途中に通るトンネルの照明に反応しているようだと母親が言う。運転中の私は真後ろの席に座っている子どもの様子を窺うことは出来なかったが、急に涙が溢れて来そうになった。できる事ならすぐに車を止めて運転を変わってほしかったが、母親は筋金入りのペーパードライバーであるのであきらめた。これ以後トンネルでの挙動を注意深く観察した結果、白色の蛍光灯よりも昔ながらのナトリウム灯に反応している事が分かった。反応といってもわずかな事であり、日々子どもの様子を見ているものだけにしか分からないレベルであるが、確かに反応している事が嬉しかった。

私はナトリウム灯の波長を調べ、その波長を含んでいる赤色の発光ダイオードを使って昔懐かしいナイトライダー様のヒカリモノを作った。そうして出来上がったそれを息子の目の前にかざしたが反応しなかった。その代わりに落胆する私の様子を眺めていたねこが反応してくれた。それは嬉しかったが喜んではいられなかった。思い返してみるとナトリウム灯が発する波長も含んでいるはずの白色蛍光灯にも反応しないし、高輝度の白色LEDにも反応しないということは、特定の波長のみが眼に入った時にだけ何がしかの刺激が脳に行っているということである。この件は現在(一歳半)に至るまで検査も受けていないが、近いうちにより明るい可変波長式のヒカリモノ改を作る予定であるので、その結果は改めてアップする予定。

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脳性麻痺だって?

退院して一月が経った頃、主治医に勧められて市の療育センターを受診した。紹介状には「CPの疑い」と書かれていたがこの時私達はまだ楽観的であった。CP = cerebral palsy = 脳性麻痺 とは認識していたがあくまでも疑いであるから、あくまでも念のために受診するんだと考えていた。一日がかりで小児科・整形外科・歯科とそれぞれ1時間待ちで3分診察を繰り返して、最後にひとこと「脳性麻痺です、タイプは痙性四肢麻痺ね。長い目で焦らずに。」と説明されたが当然何の事だかわからないので、書いてある文字を読もうと思ったがこちらは解読不可能文字列であった。しょうがないので説明を求めたがやっぱりさっぱり要領を得ないまま家路についた。最初がこんな調子であったので正直我々の頭の中は不信感が渦を巻いていたが、これをきっかけに脳性麻痺に真っ向から向かい合って現実を受け入れることが出来たかもしれないと考えている。

家に帰った私達は最初の頃のようにまたネットで情報を集めまくった。ネット上に溢れる記事の中にはやっぱり最期まで読めないものが多かった。我が子もこんな風になるのかと思うと反射的にブラウザーを閉じてしまう。しかしやっぱり気になってまたほかを探すことを繰り返すうちにようやくおぼろげながら現実が見えてきた。とはいえ我が子と同じ症例かつ同じパターンは見つけ出すことが出来なかったのがせめてもの救いであった。同じ症例、つまり生まれてすぐに脳梗塞を起こしたと思われる例はいくつもあったが、我が子のように大脳のほとんどを失ってなお発育が順調というというような例はまったく見当たらない。すなわち今後どうなるか誰にも予想できないということと私達は理解したのである。

ともあれ我が子は脳性麻痺と確定診断を受けたわけである。早い話がそれはそれで受け入れるしかないと腹をくくっただけのことであるが、正直なところ、数枚の経過を書いた紙と画像を見ただけで本人の身体や挙動をよく観察したり我々からヒアリングもせずに、いとも簡単にそんな診断を下した医師を憎んだ。医学が現実についてきていないだけのことなんだから、こっちはこっちで勝手に考えさせてもらおうというところが本音であった。この療育センターについては現在も付き合いがあるが、あまりいい話が聞こえてこない。でも一部の方々は頭の下がるような熱心さで従事されているのも事実であるので悪口ばかり言うわけにも行かないが、この件についてはじっくりと今後の組織の姿勢を見つめて、また機会があれば書いてみたいと考えている。

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無謀な長距離移動

そんなある冬の日にふとしたことから我が子を連れて片道1300kmの旅に出た… 前に乗っていた車を結婚式を挙げた福島の教会の牧師さんに譲ることになり、当初は陸送の予定であったが以外に値段が張るので顔見せがてら私が納車に出向こうということになったのである。でもこの時点では私が単独行のつもりで準備を進めていた。そして冬タイヤに履き替えあれこれ整備を済ませて準備完了した出発の数時間前にふと思いついて「一緒に行く?」と妻に持ちかけたところ「特に止める理由が見つからない」との返事が。

帰りの飛行機のチケットが無事に取れたので早速三人分の荷物をまとめようとしたが、こんな小さな赤ちゃんを連れて車以外での移動は初めてのことだったのであれこれ悩みながらもどうにか荷造りを終えていざ出発。時は2006年2月3日。21時に福岡県北九州市を出発。東に向かう時にはいつも中国道を使うのだが今回は乳飲み子が一緒なので深夜でもサービスエリアの開いている山陽道を走る。およそ3時間ごとにSAで休憩を兼ねて授乳をしながら東へと進む。京阪神の混雑を夜明け前に抜けたのだが栗東のあたりから急に吹雪いてきていきなりの雪景色に変わる。目の前には融雪剤を撒く道路公団の車が超スローペースで走る。幸いなことに後席で二人とも寝息を立てているのをいいことに一気に名古屋をパスして7時過ぎに浜松SAで朝ごはん休憩。

そんなこんなで順調に距離を稼ぎ10時過ぎに富士川SAに到着。気持ちの良い天気で富士山もくっきりと姿を現していた。心配していた息子は岡山あたりからずっと爆睡していて普段眠らないといった様子が嘘のようであった。車の音と振動が心地よい眠りを誘ったのだろうけど、ここまで眠ると逆に心配になってくるが杞憂に終わった。そんな風に息子の状態が良かったので富士川SAから那須高原のログハウスに暮らす知人に連絡を取ってみたら大歓迎との返事が来た。よし、鬼門の首都高速を真っ昼間に突っ走って東北道に向かおう。

用賀を過ぎたあたりで少し渋滞になったが、正午ちょうどに俗悪な六○木ヒ○ズを正面に眺めて笑いながら無事に北上し、なんとか息子も愚図らずに東北道へ辿り着き蓮田SAにて軽く昼食を摂る。息子も普段とは違う様子に興味津々といった様子であったが、車が走り出すとすぐに睡魔に襲われるようで居眠りを繰り返していた。ココまで来たら後はゆっくりと授乳とおむつ交換を繰り返しながら16時に那須高原に到着。気温は氷点下だったけど車から降りた息子はやっぱり興味深々であたりの様子を伺っている。ここまで19時間、1250kmの水平移動はとりあえず悪影響を感じなかった。暖かなログハウスでゆっくりと休ませてもらった三人は福島県白河市を目指して愛車での最期のドライブを楽しんだ。

白河に二泊する間も息子に問題は起きなかった。というよりもむしろ、あの晩に起きた信じられない出来事以降、息子と我々を励ましてくれ、沢山の勇気と温かい言葉をくれた白河の恩人のみなさんに息子を抱いてもらったことのほうが大きな意義があったと感じた。とはいえこれはたまたま偶然何も起きなかったから良かったのであり、帰宅後に主治医からやんわりと釘を刺されたのは言うまでもありません。

そして最期に我々が向かったのは福島空港。当時は福岡〜福島便が就航していたのである。このB737に乗って帰るのが最期のイベントであり最後の心配事であった。三ヶ月の新生児を連れているだけでANAスタッフの注目を浴びていた。しかも息子は私の肩に掛けたスリングにすっぽりと収まり、下膨れの丸い顔だけを外に出していたから目立つのは必然であった。息子の初めてのフライトに当たって私は息子の身体を一時も私の身体から話さなかった。ジアゼパム(セルシンシロップ)を少量飲ませたがこれは正直保険の様なもので、当時の息子はそんなに素直じゃなかった。でもこれもすべて杞憂に終わった。須賀川の森が見えなくなる頃には息子は気持ちの良さそうな寝息を立てていた。これにはCAさんも驚いていた。きっと大騒ぎになることを予想していたのであろう。

【著者注】
この記事には時々「新生児 長距離ドライブ」といった検索ワードでヒットしているようですが、この一文はあくまでも我が子の場合です。その時々の病気の状態や気候などによって予想もしない問題を引き起こすことがあると思われますので決して真似はされないように願います。

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